教養について

日頃、競争の激しい社会人生活を送っていると、ともすれば忘れがちになってしまうのが、教養とは何かということです。

恐らく多くの社会人の方が、教養など身に付ける暇もなく、目の前の問題に役立つこと、あるいは数年後の自分に役立ちそうなことを勉強していると思います。私も全く同じ状況であり、これが悪いことだとは思いません。グローバル化の中で賃金もフラット化が進んでおり、自分の雇用は自分で守る必要があります。能力は常に磨かないとなりません。
そんな文脈の中で「教養」について語られるとすれば、「リーダーはスキルだけでなく教養も必要だ」、とか、「外国人のお客様とのミーティングでは、世界経済や世界史について語り教養を見せつけよう」と言った類だと思います。これも特段悪いことではないでしょう。
 
 
それでも私の中には、これらとは相反する感覚があります。
「勉強は役に立つからするものではない」というものです。
 
 
私が学生時代過ごした京都市のずっと北に、天橋立で有名な宮津市があります。そこに政治家・前尾繁三郎(1905〜1981)の記念館があります。彼は政治家であると同時に、真の教養人だったそうです。その記念館には、彼の蔵書が保管されており、財政・経済から字源・語源関係まで、洋書・和書・漢籍で約四万冊があります。全てに目を通したかどうかは分かりませんが、それでも如何に勉強熱心であったかは
想像に難くないです。


前尾さんはよく「教養が邪魔して総理大臣になれなかった」と周りの人に言われたそうです。教養から来る超越的な態度が、生臭い政治の世界と上手くマッチしなかったのでしょう。しかし通産大臣にまで上り詰めているので、能力の高さは間違いありません。
 
 
「教養が邪魔」するというのは実際にあることだろう、と私は思います。教養を深めるとは、経済や政治の価値観とは全く違う価値を深めることになるからです。教養は利害を超えたところに存在する、水晶のような美しいものだと思います。それを覗き込めば、自分を映し出してくれるような・・・。
 
純粋な好奇心から始まる勉強があることを忘れたくない。
勉強は目的達成のための「手段」ではなく、「目的」そのものである。
ビジネスと少し離れたところで、私はこの感覚は忘れずにいようと思います。
 
 
(田原)

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