ShareWisサポートメンバーの中屋です。
このブログは、メンバー各人が、教育や学習にまつわること等を独自の観点から描くものです。
私の第弐回目は、「知識」について書きたいと思います。
(少し前置きは長くなりますが…)大学受験を終え、人生最後のモラトリアム期間である大学生活を謳歌していた私は、大学2年生のある日、いつもと変わらぬ眠い午後一番の時間帯に英語の講義に出席していました。
その講義は、英語で論文を書く方法論を学ぶことに主眼が置かれており、
内容は Introduction → Body → Conclusion といった、一般的な英文の構成方法から始まり、論文の編纂の仕方等を学ぶものだったと記憶しています。
講義の中で教授は、方法論を学ぶこと/知ることの意義について次のように述べられていました。
「私は学生時代に、地理のテストのために国の名を沢山暗記した。 しかし、例えばソビエトの解体に見られるように、時代の変化とともに国境は変化するし、国の名称も変わる。地理のテストのために暗記した内容は、今となってはuselessなものだ。」 「あるサイエンスの講義では、公式や定理を学び、それらを暗記したが、数年後それらが別の発見により覆された。これも前者同様に今となっては使えないのだ。」 「一方、方法論(※ここではあくまで英語論文についての方法論を指します)とは、単に暗記するだけのものではなく、普遍的に通用し、かつ応用のきく「知恵」みたいなものだ。」 「方法論を知らなければ、どんな天才でも良い論文を書くことはできず、かたやどんな凡人でも方法論に基づくことで、立派な論文を作成できる。」
私の断片的な記憶と、稚拙な文章力では、つっこみどころも多々あるかも知れません。
Know-How本が書店で幅をきかせる現状を鑑みれば、そんなこと至極当然と思われる方もいるでしょう。
しかし想像力を働かせると、この言葉から「知識」について、いくつかの示唆が得られのではないかと思います。
少なくとも、高校時代まで暗記に次ぐ暗記を繰り返し、ドラえもんの暗記パンなんかあれば欲しいと思っていた私には衝撃的な言葉でした。
知識は知識でしかなく、知識をたくさん貯め込んだとしても、それははただの物知りか、雑学王くらいで終わりです。
(雑学王ならそれなりにデレビのクイズ番組に出られる可能性はありますが)
最初は「知識」を収集することから始めるのも良いでしょう。
しかし学習をする中で、単に「知識」の収集で止まるのではなく、それらを有機的に結びつける力や整理する力、応用する力を合わせて習得することで、「知識の先にあるもの」が見えてくるのだと思います。
Share-KnowledgeやShare-Know-Howではなく、Share-Wis(dom)の名前には上記のような考えが宿っている野ではないかと私個人的に妄想しております。
つづく
(中屋)
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